明太もちチーズもんじゃ明太もちチーズもんじゃ
(明太子、もち、チーズなど)
海鮮入りもんじゃ海鮮入りもんじゃ
(エビ、イカ、タコ、ホタテなど)
トマト入りもんじゃトマト入りもんじゃ
(トマト、ひき肉、チーズなど)
クリームソース味もんじゃクリームソース味もんじゃ
(クリームシチュー、コーンなど)
カレー味もんじゃカレー味もんじゃ
(カレー、コーン、ツナなど)
スペシャルもんじゃスペシャルもんじゃ
中身は各店それぞれ。食べ比べてみてください。

『月島もんじゃ焼』

月島もんじゃ焼

東京周辺のみ限定販売!本場の味をご家庭やお友達と一緒に。
●もち明太子ソース味
●ソース味
詳細はこちら


『月島もんじゃTシャツ』

月島もんじゃTシャツ

胸と背中に、もんじゃをモチーフとしたイラスト入り。他では手に入らないレア・アイテム、好評発売中!
詳細はこちら


●東京メトロ有楽町線/都営大江戸線
月島駅
出口7から出てすぐ西仲通り商店街
※都営大江戸線勝どき駅からでも、徒歩5分です。

●首都高速都心環状線

内回り

銀座出口より晴海通りを右折し、晴海方面へ

内回り

新富町出口よりそのまま直進し、佃大橋へ

外回り

銀座出口より晴海通りを左折し、晴海方面へ


月島もんじゃ振興会協同組合

月島もんじゃ振興会共同組合

東京都中央区月島1-8-1 アイマークタワー1F 103
電話:03-3532-1990
12:00〜20:00

月島もんじゃ振興会共同組合地図
月島散策

『地下鉄』
1988年、有楽町線が開通してから、月島での生活が大きく変わりました。 それまで唯一の公共交通手段は、東京都営バスでした。午後10時〜10時半に最終バスがなくなると、月島は文字通り「島」になりました。月島を出るにも、月島に帰ってくるにも苦労しました。 東京駅や新橋駅の月島方面のタクシー乗り場で、1時間待っても来てくれず、とぼとぼと歩いて帰ったことが何回もあります。特に冬の寒い日は、勝鬨橋を渡る頃には身体の芯まで冷え切っていました。 それがどうです。開通後は、銀座まで3分、有楽町まで4分(5分以内ですよ)、六本木やディズニーランドまで約15分です。 非常に便利になり、活動(飲む?)時間が増え、みんな喜んでいます。
月島もんじゃの発展の歴史も、ここにあります。昔、もんじゃは、東京下町の駄菓子屋で、子供がおやつとして食べていました。 交通の便利な下町では、町の再開発が進み、住民が入れ替わるとともに、駄菓子屋が次々と消えていきました。 ところが、交通不便な月島では、地下鉄開通までは、まだ、古い町並みと住民が残り、子供の食べていた駄菓子が、大人の食べ物に発展していきました。 この狭い月島に、1980年ごろで、大人相手のもんじゃ屋が10軒くらいあり、お互いに競争していました。 この競争から、いろいろな味付けや変り種のトッピングが工夫され、多くの人に愛さる今のもんじゃが出来上がりました。 そして、TVや雑誌に取り上げられ、有楽町線に乗って多くの人々が月島に来られ、「もんじゃは美味しい」と喜んでいただけるようになりました。 今では、日本全国どころか、海外からも来ていただいております。 2000年には、大江戸線も開通し、月島のもんじゃ屋の数は、70数軒あります。 当組合の加盟店が65軒、これからも、お互いに競争しながら、更に美味しいもんじゃの開発に努力していきたいと思っております。

月島散策

『勝鬨橋』
子供の頃、佃の渡し(今の佃大橋)から勝鬨橋に流れる隅田川は良き遊び場であった。 勝鬨橋は、九時・十二時・三時に橋が開き高いマストの船が東京湾から墨田界隈の倉庫へ荷をおろしにやってくる。 帰路も時間に合わせて開いた橋を通過して去ってゆく。 夏休みになると勝鬨橋周辺の隅田川は絶好な遊び場で、日課のように遊んでいた。 朝、潮が引けているときは岸壁近くで沙蚕・ごかい・を取って、午後からは隅田川でハゼ・ボラ・セイゴなど釣ったり、 夕方には月島の岸壁から、築地、明石町の岸壁を何往復も泳いだりした。 泳ぎ疲れて岸壁に寝転び勝鬨橋をじっと眺めていると疲れを忘れたようになる。 あの時の風景は今も忘れられない。 今は開かずの勝鬨橋であるが、いつの日か開いてくれることを望む。

月島散策

『月島五橋』
現在の地図では、「月島」は700m×600mのほぼ正方形の形をしています。 端から端まで歩いても10〜15分くらいです。 月島地区の五つの場所「月島」「佃島」「勝どき」「豊海町」「晴海」は、江戸時代から昭和にかけて隅田川の河口の中州を、埋め立てて作ったものです。 佃島は、江戸時代にでき、月島は、明治になって東京湾埋め立ての1号地としてできました。 続いて、勝どきの2号地、3号地、晴海の4号地と順に作られ、現在は10数号地までできています。
月島は、できた当初から、小工場とその従業員の住居として発展し、整然とした区画割りにより、長屋が立ち並びました。 その長屋が、東京大空襲の被害を受けなかったのと再開発が遅れたため、第2次世界大戦前に建てられたままの形で残っていました。 ただし、ここ10年くらいの間に、低層から超高層までのビルが建ち、急速に数が減ってきています。 また、残っている家も、外側をリフォームして、昔の面影がなくなってきています。 この地区と外界をつなぐ橋が、「相生橋」「勝鬨橋」「春海橋」「佃大橋」「中央大橋」の五橋です。 この五橋のうち、一番古い橋は、1903年にできた相生橋で、新しい橋は、1993年に完成した中央大橋(写真)です。

月島散策

『西仲通り』
もんじゃ屋は、1980年ごろで10軒くらい、1988年に地下鉄有楽町線ができてからは急速に増え、今では75軒くらいあります。 最初は、路地裏で開店した店が多かったのですが、人通りの多い西仲通りに移動したり、西仲通りのお店がもんじゃ屋を始めたりして、今では西仲通りに面したもんじゃ屋は、35軒あります。それ以外のもんじゃ屋も、ほとんどが西仲通りに続く路地にあり、これが西仲通りが「もんじゃストリート」と言われる理由です。 この西仲通りの商店の集まりが、離合集散しながら、現在の「月島西仲共栄会商店街振興組合」に続いています。 この振興組合は、洒落たアーケードをつくり、ポイント制を導入し、歩行者天国(毎日7時まで)やビックリ市(毎月27日)を実施しております。
現在145店の会員がおりますが、もんじゃ振興会の会員と重複している会員も比較的多くいます。 西仲通りは、明治の後半より両側に商店が集まり、他の通りにある工場の従業員を中心に賑わっていました。 大正に入ると、更に道の真中に露店が並び、大正10年の調査では、露店の数が90軒を超えていたというから、かなりの賑わいが続いたようです。 その後も、関東大震災(1923年)で一旦焼失しながらも直ぐに復興し、第2次世界大戦までは、東仲通りなどの工場の発展とともに、繁栄が続きました。 敗戦後(1945年)は、月島地区は空襲で焼けなかったため、人口は減少しなかったものの工場が徐々に月島から移転していき、安定期に入りました。 隅田川を渡った他の地区では、高層ビルが次々と建つ中、月島では棟割長屋が中心で大きな変化がありませんでした。 そして、1960年前後、「大人向けのもんじゃ屋」が開店を始めました。

月島散策

『月島観音』
月島観音は、西仲通りの3番街、交番の隣のサングランバという9階建てのビルの中にあります。 ビルの1階の中ほどに参道があり、その奥に鎮座されております。 正式のお名前は「信州善光寺別院本誓殿 月島海運観世音」といいます。 1951年の建立で、ご本尊は観世音菩薩(信州善光寺大本願にて入魂)と一光三尊如来(善光寺ご本尊)を安置しております。 海運、特に遺失物の発見と病気の平癒にご利益があるそうです。 毎月7の日がご縁日で、節分には、善光寺さんのお坊さんのお経の後、西仲通りに設けた台の上から、豆まきをします。 このビルの建つ前は、ほぼ同じ場所に、いかにもお堂と言う感じのたたずまいで、両側に老舗のもんじゃ屋や飲み屋がある路地を通ってお参りに来たのもです。

月島散策

『東仲通り』
もんじゃ屋の店の多くは、昔2〜4軒長屋だった1軒を改装して営業しております。この長屋の基準が「2間×3.5〜4間(3.6m×6.3〜7.2m)、7〜8坪」で、木造2階建てでした。 この長屋は、関東大震災の後、昭和2〜3年頃までに建てられました。 その後、東京大空襲(1945年)で、銀座、浅草、深川など東京の大部分が焼けたとき、根岸などと共に焼け残りました。その後老朽化がすすみましたが、「家を新築すると道路部分を1mくらい広く取らなければならない」という法律や、第2次世界大戦(1942年)前からの賃貸関係の法律もあり、新築は考えられませんでした。 その上、都心にありながら交通の便が悪く、有楽町線開通(1988年)までは、大型の再開発事業も進みませんでした。 このため、10年前までは一歩路地に入ると、昭和初期の長屋の面影がかなり残っておりました。 戦前から戦後にかけての住宅事情が悪い間、この家に平均2、3家族7〜8人は住んでいたと話す方が居られます。 例えば、1階の2畳の居間に独身者が、茶の間に老夫婦が住み、玄関から出入りしていました。 また、2階は若い夫婦と子供達が住み、勝手口から出入りすることが多かったそうです。 勿論、トイレは共同、お風呂は銭湯という時代でした。 子供も多く、路地毎に10人はいたと思います。 現在の地図上の月島(600×700mの地域)の子供は、月島第一小学校または月島第三小学校に通い、1丁目の一部は佃島小学校に通っています。

月島散策

『清澄通り』
清澄通りは月島の中央を走る幹線道路で、「南西方向」は豊海町が起点で、「北東方向」は相生橋を渡り門前仲町方面に通じています。 月島から門前仲町までは、道路が36メートルあり、車道3車線、両側に7メートルの歩道があるゆったりとした道路です。 明治36年(1903年)清澄通りにつながる相生橋ができるまでは、月島は4本の渡しで周辺の陸地と連絡し、飲料水まで「水売り」から買っていました。 最初の相生橋は木製でしたが、徒歩や車で陸地に通え、橋の下に水道管が通ったので、月島は飛躍的に発展し始めました。 そして、大正8年(1919年)相生橋が架け替えられ、対象12年(1923年)に「電車」が通りました。 その1ヵ月後に関東大震災が起き、相生橋は焼失しましたが、大正15年(1926年)にコンクリート製の3代目ができ、昭和47年(1972年)まで、「電車」は相生橋と清澄通りを通って、「月島-柳島・福神橋」の間を往復し、月島の人の足になっていました。 昭和15年(1940年)に勝鬨橋が竣工し、晴海通りを通って「月島-新宿」「新佃島-渋谷」の間にも電車が走り、勝どきで晴海通りと交差する清澄通りは月島の交通の要になりました。 現在でも「都バス」の経路は、清澄通りと晴海通りにあります。 「清澄通り」の名前は、江東区の清澄庭園の脇を通っているところから名付けられたものですが、昔の月島の地図では「月島通り」になっていました。